SOGNA製作までの経緯

 私の父はIHIの技師で、お酒を飲むと大きな夢や理想を語る男。母は書や絵画をたしなみ、特に日舞に熱をあげ没頭していました。長兄は航空自衛隊のジェットパイロットの教官、次男は三菱重工で潜水艦・海底作業基地などの設計に携わっていました。三男の私はそのような家庭の中、幼少時よりバイク、ジェット機、スポーツカーなどのデザインに魅了され、いつしか、憧れのスポーツカーをデザインすることに夢中にななり、高校時代には、自分の美的感覚とテクノロジーを融合させた仕事に就きたいと思うようになりました。

 夢はさらに膨らみ、誰も考えたことのない世界最高のスポーツカーをデザインし、自分の手で作りたいと思うようになっていきます。独自の発想で魅力的なフォルムと機能について、かなりの年月、研究に没頭し、自分でも満足できる自信作が生まれてきました。

 基本的なデザインも固まり、実際に製作する事を考えると、まず日本においては最高出力280馬力という自主規制もあり、メーカーは一台の車を開発するために莫大な資金を投じて作るので、大量生産、大量販売でないと経営が成立しえない。そもそも個人で自分の望む夢の車を作るという発想は、どう考えても不可能に近いと言う現実を理解していました。

 どうしても夢を捨てきれず、どうすれば夢の車を造ることが可能になるかを考えに考え、超高品質・最高クラスの高出力のエンジン、そして他に類をみない最高のデザインのスーパースポーツカーを少数限定製造し、それを世界の特定の顧客に販売する新しいスタイルのメーカーを創業するしか道はないという結論に至ります。価格は一億円を超えるような超高額となるものの、それを逆手に取り、限定生産の策を用いて実行に移すことにしました。

 そして、私が考えるスポーツカーに必要な、ランボルギーニ、フェラーリの高出力、大排気量のエンジンを求めてイタリアに赴く事を決心。チャンスをつかむべく、カースタイリング主催のカーデザイナーズツアーに参加し、まず手がかりをつかむことにします(詳しくは、月刊ROSSO誌2002年10月号より16回連載された「Car Dreaming Story ~ SONGA夢のカタチ」に記述、書籍化は検討中)。

 イタリア・トリノモーターショー、アルファロメオミュージアム、フィアット社工場等の見学、そして憧れのカロッツェリアの見学をした後、ツアー仲間と別れました。私はトリノに残り、カロッツェリア数社にデザイン画とスケールモデルを持ち込み、必死で本場のデザイナーや経営者達と渡り合いました

 ついには協力者を得て、現地トリノで車のデザイン・製造をするイタリア現地法人のカロッツェリア「ART and TECH TORINO SRL」を設立。当時、一億円もするような少量生産のスーパーカーは、主要メーカーはほとんど作っていなかったかと思います。ランボルギーニの名を冠する事を条件に、エンジンとシャシーの提供を受けて完成したランボルギーニ・ソニアは、欧州では高い評価を得て、トリノモーターショーでは著名カロッツェリアと共に招待出展を受け、メインブースの展示という栄誉をいただいております。

 しかしながら日本ではなかなか理解されませんでした。当時、車をデザインして実際に作るという事のは、大企業のやる事、自動車メーカーでする事だというのが当たり前で、それ以外考えられなかったのです。従ってカーデザイナーは自動車メーカに属すものであり、私のように個人的にデザインをし、それを製造するという試みは、一般的には想像すらつかない非現実的な企てだったのです。

 SOGNAがまさに誕生した1992年。バブル崩壊により世界中の経済が混乱し、自動車の世界はスピード、パワーよりも経済性が重要視される時代に変化。大排気量のスーパーカーはもとより、一般小型車に至るまでエコノミーカーの開発に向けて、各社が一斉にハンドルを切り替えました。

 それ以後、阪神淡路大震災、アメリカの多発同時テロ、ドバイショック、リーマンショック、東日本大震災、さらにはコロナウイルス禍といった災害が続いており、こうした世情において、贅沢品の最たるものである「スーパーカー」は時代背景に多分に影響を受けるわけであり、エコノミーカーからさらにはエコロジーの時代に入っておりますが、私はそれでも目標をあきらめず、新たなる完全なオリジナルのデザインの「夢のクルマ」を作ろうと、日々活動しております。

カーデザイナー山﨑亮志

Ryoji Yamazaki アートアンドテック代表、ランボルギーニ・ソニアのカーデザイナー山﨑亮志(やまざきりょうじ)の公式ページ CEO of ART and TECH The creator of Lamborghini SOGNA and VERA

0コメント

  • 1000 / 1000